あの世色
- saharaisayo9
- 4月8日
- 読了時間: 6分

お総菜売り場って空腹時に歩かないほうがいいな
コンビニもそうだけど
何年か前、スーパーで買い物してた時だったと思う
生活が大きく変わって職場でもいじめられてて、
纏ってる雰囲気が陰鬱そのものだった
レジで会計した後で、会計してくれた店員さんが
「沢山食べてね」みたいなことを言ってくれた
その日の夜泣いた
料理が嫌いなわけじゃない
得意でもないけど
片付けが嫌、材料を買うのが面倒で嫌
かといって人間の体は、カップ麺とかお菓子ばかり食べていると
死への階段を静かに降りていく
最近それをよく感じる
とか言っても、何もしたくないときがある
目を開けるのも辛い
隙間から差し込む朝日にムカつきさえする
でも、腹は減る
これが一番ムカつく
散々泣いても絶望しても腹が減る
落ち込んできてもキューっとお腹が鳴ると、
なんか落ち込む事がばかばかしくなってくる
お総菜をスーパーで買う
買うのは自分なのに、「好きなものを買っていいよ」と
自分に言った
小さい頃、親の買い物についていって、
「好きなお菓子選んでいいよ」と言われたときの気持ちを思い出す
揚げ物とかおひたしとか煮物とか
食べたいものをとにかく選ぶ
それらをわーっと食べて、からっぽになったお総菜のパックを見ると
なんでか虚しくなる
満腹になってもどうせ数時間するとまた腹が減るんだと思うと、
どうしようもなく切なくてやるせない気持ちになる
しょうがない生き物だなと思う
引きこもりだった頃、
家から出ていったことがある
家出とかそういうことでなく、ふらふらと家の外に出ていった
何も考えず、携帯はもっていたかどうか覚えてない
長袖に適当なズボン履いて、スニーカーで出てった気がする
朝の4時ごろかそのくらい、太陽が昇っていないけど
もうそろそろ朝が来る、辺り一面薄水色とピンク色の
桜貝みたいな幻想的な色の空だった
あの世みたいだと思った
あの世がこんな感じなら、死ぬのも怖くなさそうだなと思った
そのころ、色々限界だった時期だったと思う
限界なのは割と今もだけど、それとは少し違っていたかも
持ち込みに行って「バズったこともないのに来るな」と言われたり
仕事も辞めた時期も重なって、
応募した漫画も全部だめで、流す涙も残ってなかったかもしれない
死のうと思ったのかなんなのか、覚えてない
ただ足が勝手に動いていたとしか言いようがない
ウォークマンだけ持って、海の方まで歩いて行った
季節は多分、春の始まりか、そのくらい
長袖でまだ心地いいくらいだったと思う
遊泳禁止の看板があって鍵がされてたから海には入れなかったんで、多分夏じゃない
ただ音楽を聴きながらぽつぽつ歩いた
時間が時間だからお店も開いてないし、車もそんな走ってない
朝でもなければ夜でもない、でも自分の手足も道も目視できる
そんな時間帯に外を歩いているのが不思議だった
本当は海の砂の上を歩きたかった
でも入れなかったから、仕方なく海沿いを歩いて、
細道を歩いて、一時間くらい外を歩いて家に帰った
そのあとどうだったか、正直あんまり覚えてない
親が起きていたような気がする
玄関が開く音に気付いて起きて、私の靴が無い事に気づいて、
みたいな話をしたような気もする
怒られはしなかった
クソ迷惑なガキである
もしあの時に海に入れていたら、私は海の中に入ってたのかなと思う時がある
砂の上を歩いていたはずがいつのまにか入水して、
そのまま死のうとしていたのかなと思う時がある
自問自答しても、この出来事自体がだいぶ前の事だから、
覚えてないとしか言いようがない
なんか冷静になると結構怖い事してたなと思う
この奇行に走ったのはこれが最初で最後だった
またあの色の空が見たいなと思う
綺麗だったなぁ
名前の付けようのない色だった
強いて言うならあの世色かもしれない
そのあとそれとは別の奇行に走った記憶がある
なんでか分からないけど、「ファミレスに行かなきゃ」と猛烈に
思い立ち、急ぎ足で最寄りのファミレスに駆け込んで
猛烈に食べまくった
親も少し驚いていたけど、少し驚いただけで、別に怒りはしなかった
孤独は人を狂わせるんだなと思い知った暗黒時代の話
じゃあ今は暗黒じゃないのかと言われると、そんなこともない
視野が少し明るくなったくらいで、暗黒は変わらずまとわりついている
心を軽くするコツみたいなコラムとか、そういうものがめちゃくちゃ増えたような気が
するのは、それだけ苦しい人が多いからなんだろうと思う
「とにかく外に出よう」「太陽の光を浴びよう」
「筋肉は裏切らない」っていうのも、健康な体あってこその人生という事なのかもしれないけど、鋼の肉体を持つ人間より、銃を持ってる人間の方が強いのになと思ってしまう
捻くれた思考だと自分でも思うし嫌な脳みそだと思う
人からの励ましが欲しい時って大人だからこそ多いような気もするし
そういったコラムとか見かけるつぶやきとか、大体「承認欲求を手放そう」とか、
「執着を手放そう」とかばかりが書いてある
出来たらやってるよってことしか書いてないから、なるべく見ないようにした
承認欲求って行き過ぎるとよくないものとされてるけど、
自分が作ったものをもっと広めたいとか知ってほしいという熱意まで
それと一緒にされるのはなんか違うんじゃないかなと思う
私も個展や展示の時期はしつこく告知とかするけど、それが周りから見た時
どう見えてるんだろうと思う時はあります
うるせーなとか思われてしまってるのかなとか、考えますやっぱり
それでも告知はするし、拡散もされてほしいって思うし、
一人でも多くの人に来てほしいと思うからやっています
お金がかかってるからとかより、自分の絵とか作ったものに触れてほしいという
気持ちがあるからやっています
これも承認欲求と言われてしまうのかもしれないけど、
個展の為に展示のために絵を描いて、飾られて、色んな人が見に来てくれるかもしれない
機会があるなら、ビラ配りを辞めるわけにはいかないと思うんです
自分にもっと実力があればって思いながら描くし、告知するし、
同じことを違う時間に呟いてみたりもします
自分がしてることが、見た人にとってはどう伝わっているんだろうって
どうしても考えてしまうけど、
いつか個展を依頼されるような人間になりたいし、
人のために絵を描きたいし、描いてほしいと思ってもらえるようになりたいです
自分が描いた絵を街中で見てみたい
永遠の夢だなと思います
薄っすらと意識し始めていた自分自身の死と周りの死が
日に日に色濃くなっていくような気がする
死にたくないし死んでほしくない
身内が死んだときの事を考える
その時の自分がちゃんと自分の足で立っているのか
どうして人って死ぬんだろうな
どうして永遠に幸せな時間を反芻しながら生きることが許されないんだろう
戻れるなら、赤ちゃんくらいの頃に戻りたい
もう一度、親の両腕の中に体全部が収まる感覚を味わいたい
どれだけ願っても叶わないんだよな
自分は今どこに向かって歩いてるんだろう
それすらも最近は分からなくなってきた
自分にとっての幸せも曖昧になっていく
帰りたい
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